種を蒔く料理北嶋竜樹

壬生菜の漬物

人の手が何も加わっていないことが理想的な自然の在り方だとすれば、人の存在は自然にとって“余計なこと”でしかないんじゃないかと思うことがあるのです。同時にその“余計なこと”のおかげで人は文明を手にし、今まで進化を遂げてきたという側面もあるのですが、本来は人も自然の一部であるはずなのに、そう捉えるには歴史の中で、人は少々“余計なこと”をし過ぎたのかもしれないと思うのです。

私は岩崎さんのような自然に寄り添い向き合ってこられた方が作る野菜を眼前にすると、少しばかり躊躇う(ためらう)のです。 "余計なこと"をしてしまうのではないかと。そして作り手として、料理をすることとはどういうことなのかを再考するのです。元々料理とは人が自然と対峙した歴史にあります。隔たりが生まれたことで、人は弱さを自覚し生き残るために料理をしてきたのです。人類の歴史は料理と共に進化し創造してきたと言えるのです。私にとって料理とはそういった自然に対する小さな抗いでもあるのです。

この器のように古い時代のものを手にすると、私が手にするまでに、長い年月をとても大事にされてきたのだなと思うのです。人の手によって残されてきたものですから。自然という存在が意図しない美しさであるならば、人が残せるものは意図したものだけなんだと私は思うのです。岩崎さんの種たちと同じように。

1人の作り手としてこれからの未來に私は何を残せるのだろうか、残していけるのだろうか、そんなことを思考し、私は今日も小さな抗いを行うのです。


料理
北嶋竜樹(neutral)
須恵器(古墳時代)
写真
八木夕菜
Atelier NOW/HERE
北嶋竜樹

北嶋竜樹(neutral)
1983年大阪生まれ
2021年に東京から京都へ拠点を移し、neutralの名で特定の場所を持たない独自のスタイルの活動を始める。食事のための食ではなく、食べるという行為から感じとる様々な知覚体験を身体の内側に描いていく作品制作を行っています。菜食を文化的、文学的側面から捉えた制作は精進料理や日本の食文化の研究にとどまらず、哲学、歴史、考古学など多義にわたって行われる。

選んだ野菜

壬生菜

京都の古い在来種。京都市内の壬生地区で栽培されてきた。水菜の一品種だが水菜のようなギザギザした切れ込みがなく細長く丸い美しい形をしている。

1800年代後半にカブとの交雑で生まれたと推定されている。京都の農家が代々守ってきた門外不出の種を岩崎さんが受け継ぎ30年以上の月日が流れている。育てるまでは「たかが壬生菜」と軽く見ていたが、この壬生菜を守り継いできた農家の方がその想いを聞いたとき「その感動が直に伝わり、農民が種を守り継ぐ素晴らしさを知った。私もこの壬生菜と一緒に育っていくような感覚。」になったそう。

岩崎さんの壬生菜は弾けるような瑞々しさと上品な甘味とほんのり苦味が素晴らしく、衝撃的に美味しい。生でもさっと茹でて和えても美味しい。

岩崎さんが大切に守ってきたこの壬生菜も、冬の長雨や高温などの温暖化の異常気象によって栽培が非常に難しくなってきている。生産者も減り、スーパーに並ぶこともないこの「さりげない野菜」畑菜を岩崎さんは心から愛している。

種を蒔く料理

江口研一food+things)

器 ‖松本かおる
写真‖在本彌生

北嶋竜樹neutral)

器 ‖須恵器
写真‖八木夕菜

船越雅代

器 ‖インドの古い石皿
写真‖八木夕菜

今井義浩monk)

器 ‖陶片、棚板 陶板
写真‖八木夕菜